■米国のアフガニスタンに対する戦争行為に関する意見表明

著 エックス君

今日、シゴトの帰り、本屋に立ち寄って、雑誌『世界』11月号(岩波書店)を買い求め、ざっと拾い読みをした。安心した。ちゃんと冷静に理性的に世界を見る論調が健在であるのを知って、安心した。まあ、当然と言えば当然だろう。


今、米国政府は、9月11日事件を「戦争」に仕立て上げ、「報復」と称してアフガニスタンを爆撃している。尻馬に乗って、英国も参戦している。そして、西欧諸国および日本国は、もろ手をあげて、米英の戦闘行為を「全面支持」している。理性的かつ冷静に考えれば、これは世界の法治秩序と国際平和を崩壊させる畏れすらある蛮行である。そのことについて、以下、私の意見を述べる。


そもそも反社会的分子による殺戮行為を「テロ」と呼ぶが、そのテロは言うまでもなく「犯罪」である。犯罪は警察権力により捜査され、刑事裁判にかけられるのが法治社会の原則である。容疑者が外国に逗留する場合は、容疑舎の容疑内容を立証し、外交ルートで容疑者の「引き渡し」を要求するのが、国際法の観点から見れば当然なされるべき措置である。また、国連決議など、国際機関からの“authorize”を得れば、国境を超えた強制力を伴う捜査権を確立することも可能であり、また国際警察機構(Interpole)に提訴すれば、容疑者の逮捕のために国際的な協力を得ることも充分に可能である。このような制度や慣習こそが、21世紀に至って人類がたどりついた「英知」なのであり、人類が幾多の犯罪を経験してようやく確立した国際的な法治秩序の原則なのである。


9月11日事件は、痛ましい事件であった。テロリズムを弁護する余地は無い。しかし、その後の米国政府の対応は、上記の国際的な法治秩序の原則に基づく理性的対処とは、全く逆のものであった。米国政府は、「テロという犯罪」を「米国を攻撃する戦争」と見なした。その当然の帰結として、国際的法秩序の中で犯罪処理の手続を踏むことはしなかったし、容疑者の追補のために国際機関に協力を求めることもしなかった。また、国家主権を超える捜査・追補の権限を得るために国際機関から“authorize”を得ることもしなかった。更には、厳密に見れば、“犯罪容疑を立証”して、容疑者の身柄引渡についてアフガニスタン(タリバン)政権に対し、“正式文書の送付による要求”もしくは“特使派遣による相手方との直接の外交交渉”をもしなかった。「容疑者の引渡要求」といっても、ただただ、ワシントンから恫喝に近い声明を発表し続けたか、もしくは、せいぜいパキスタン政府に依頼してパキスタンに駐在するアフガニスタン外交代表に伝言することしかしなかった。


一言で言うならば、米国は9月11日事件についての“犯罪処理のための正規の手続”を踏まなかった。その代わりに、米国が行ったのは、9月11日事件の“犯罪”を“新しい形式の戦争による攻撃”に仕立て上げ、事件を指導したと米国が目するビンラディン氏とその組織アルカイダ、およびそれと協力関係にあるアフガニスタン(タリバン)政権に対する軍事攻撃を行うための戦闘準備を整え、かつは、戦闘行為に対する支持を取り付けるためNATO加盟の西欧諸国や日本国の政府首脳に働きかけるだけであった。そして10月7日に、米国は、ビンラディン氏の率いる軍事組織アルカイダとアフガニスタン(タリバン)政権に対する軍事攻撃を開始した。

極めて重要なので、雑誌『世界』11月号から引用しつつ、キーポイントを確認する:


「テロは、いかに大規模であっても“犯罪”である。“犯罪”に対しては、証拠を固め、容疑者を特定し、逮捕し、定められた法に基づいて裁くのが、文明社会のやり方である。公正に裁くことによって、初めて・・・正義と秩序を回復することができる。」(『世界』11月号30頁・岩波編集部の総括)

「起こったのは“テロ”という犯罪行為だ。それが“戦争”に仕立て上げられ、“容赦ない報復”を先進世界が全面支持する。湾岸戦争以来の“(米国を盟主とする)世界新秩序”が無惨に露呈している。」(『世界』11月号32頁・西谷修氏の論に対する岩波編集部の要約)


ここで改めて、米国大統領ブッシュの言動を検証しておこう。ブッシュは、事件直後、「これは戦争だ」と一声をあげ、「自由と民主主義に対する卑劣な攻撃だ」と語り、また「国際社会に対して仕掛けられた新しい戦争だ」と語った。そして「敵」を力でねじ伏せること、ねじ伏せて「米国の強さ」を示すこと、そしてその行為に対する西欧および日本などの「同盟国」の全面支持を取り付けること、これがブッシュが考え語り行った全てである。


それに対して、西欧および日本などの「同盟国」はどのような反応を示したのか? この米国を盟主と仰ぐ「同盟国」は、事件と事件後の状況を、「テロリズムと国際社会の平和秩序との対立」という構図で捉え、「テロ根絶のために米国に全面支持を与えること」を次々と誓った。


考えれば、可笑しなことだ。10月8日にビンラディン氏が、米国の「アフガニスタン空爆」に対して声明を発表したが、その声明は、イスラエルを軍事的に支援し続け、アラブの各地に軍事基地を設置し、アラブ各国に“にらみ”をきかせている米国を名指しで非難しているが、西欧諸国や日本を敵視する言葉は一句たりとも無い。いわんや、ブッシュが言うような「“自由と民主主義”や“国際社会”を敵視し攻撃する」といった趣旨の言葉は片言隻句たりとも無い。要するに、今次の対立は、「ビンラディン氏を含むアラブ過激派と、唯一、米国との対立」に他ならないのである。しかるに、西欧諸国や日本は、これを「テロリストの悪と、国際社会との対立」という構図に置き換えているのである。


だから、「世界新秩序の盟主」たる米国、およびその「同盟国」たる西欧諸国や日本国の主張には、明らかに“論理のすり替え”がある。おさらいをしておこう。その“論理のすり替え”とは:

@「犯罪」とその処理をば、国家主権の軍事的発動としての「戦争」に置き換えていること。
A「アラブ過激派と米国との対立」の構図をば、「テロリズムと国際社会との対立」の構図に置き換えていること。
その“論理のすり替え”の当然の帰結として、弱小国アフガニスタンの主権を平然と蹂躙する米国・英国のアフガニスタン爆撃が、いとも短絡的に「正当化」される。言うまでもないことであるが、9月11日に多くの市民を死に追いやったテロ事件は「犯罪」として徹底的に追求されねばならない。しかし、主権国家の領土・領空に立ち入り、主権の軍事的発動としての「戦争行為」を開始したのは、まぎれもなく米国である。その点で、米国は、テロリストに対するのとは異なる次元と意義において、厳しく非難されねばならない。米国が戦争を開始した以上、攻撃される側には反撃する正当性が生じた。つまりは、今後に起こるであろうアラブ過激派の米国に対する反撃を倫理的・道義的に非難する根拠は、もはや米国には無い。


強い者が敵対する国家・政権・勢力を力でねじ伏せることが容認されるならば、国際法に基づく世界の法秩序は存続しない。ひいては、真の世界の平和秩序も崩壊する。私は、テロリズムを容認する者ではないし、アラブ過激派の政治的主張を支持する者でもない。ただただ、世界の各国の主権を平等に尊重するという基礎の上に成り立つ国際的な法秩序と国際平和を心から希求する者である。その観点から、テロリズムを批判するとともに、それとは異なる次元において、戦争を発動した米国・英国、およびそれに全面支持を与える西欧諸国と日本国の政府を、厳しく批判する。

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     みゆりん@摩訶不思議の花影院
http://www.geocities.co.jp/Milkyway/1524/index.HTM

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