■意見表明「武力行使はなぜいけないのか。」

「武力行使はなぜいけないのか。」/「自衛隊について」/「国際社会におけるテロ問題」

著 MATSUDA

なぜ、私が、武力行使を否定するか

私は、小学校の頃からの徹底した戦争嫌いなので、どんな歴史でも、どんな情勢でも、まず、戦争が嫌いという自分の感情的な視点と、もうひとつ、公正な、情報の収集、分析、そして判断をする視点を意識して持つようにしてきました。

そして、今、一連の出来事の、歴史的、政治的、経済的、個人的背景を、この件を議論できる程度には把握しているつもりですが、武力行使は否定します。


人がふたりいれば、関係を持ちます。
その関係は、友好であったり、敵対であったり、意識して距離を置いたり、密接だったり、相手の領分を侵してしまったり、それはそれは様々な状態があります。
また、その関係は、同じAとBという関係であっても、様々な状況において、変化します。

しかし、Aも、Bも、それぞれが、それぞれを尊重し、人間としての尊厳を見失わずに接することが出来れば、お互いに、お互いを殺し合うことには至りません。


私たちは、車を運転するとき、左側の車線を走ります。
これは、なぜでしょうか。
私たちは、左側通行というコンセンサス(合意)の下に、車を運転しているからです。

私たちは、大変多くの合意の上に、安全に、平和に、生活しています。

例えば、私は、さっき、はじめて入ったレストランで出されたお水をなんの疑いもなく飲みました。
これは、多くのコンセンサスの下、この水が毒ではないと、私が認識しているからです。

そして、そのコンセンサスの多くは、私たち人類が、言葉というコミュニケーションツールで切り拓いてきた、資源、宝なのです。


多くの人々が、当然のように、気にすることもなく享受している「安定した文明国」ならではの幸せは、様々な民族、国、宗教、そして経済と関わってきた長い歴史の中で、人間が積み上げてきたコンセンサスの上に、成り立っています。

そのコンセンサスの一つに、人を殺してはいけない、というコンセンサスがあります。

これは、人間が増え、集団で暮らすようになり、意に染まないと言うだけで殺していては集団での生活が成り立たないから、自然発生的に生まれたコンセンサスかもしれません。
しかし、歴史の中で、これを明文化し、宗教や政治の中で掲げてきたからこそ、私たちの生活の中で、確固たるコンセンサスとなっているのです。


私たちは、国際社会において、「戦争はいけない」というコンセンサスを求めています。戦争が、様々なデメリットを生むことを、国際社会が知っているからです。

個人の関係と同じように、国家間、民族間、あるいは宗教間には様々な関係があり、歴史があり、その中で、問題点を抱えています。カテゴリー同士の関係ですから
個人とは違うと思うと思いますが、同じと考えます。個人と個人の関係だって、ご先祖様まで遡って対立している人はいくらでもいます。(^^)

しかし、このような、主義、文化、経済の相違にあっても、同じ人間である以上は、言葉を使い、コンセンサスを取っていく必要があります。


先程書いた、左側通行の話に戻りますが、左側通行をはじめとする様々な交通ルールというコンセンサスの下に、車を走らせていても、事故は起こります。

自分の不注意であったり、相手の無謀さが原因であったりするでしょう。
例えば、相手が、わざと粗暴な運転をし、ぶつかってきたとします。相手はベンツで人的被害なし。しかし、こちらは同乗者が亡くなったとします。
そのとき、あなたは、その相手の車に、今度はこちらからダンプかなにかでぶつかっていこうとするでしょうか。

多くの場合は、そうしたいという強い感情が、悲しみによって引き起こされても、実行はしません。

なぜでしょうか。

私たちが、事故による被害を、それがたとえ愛おしい人の死であっても、その裁きを司法の手にゆだね、法の下に罰するというコンセンサスを持っているからです。


国際社会においても、同じ事です。

アメリカでは、一万人に近い尊い人命を失いました。
私は、悲しみ、涙を流し、数日間は食事も取れず、一週間以上上手に眠れない夜を過ごしました。

テロ行為は、許せないことです。
しかも、戦う意志のない多くの人々を、兵器に換えてしまった、今回の戦闘手段は、言語道断です。
しかし、理由もなく行われた攻撃ではありません。

歴史は2000年以上あるのです。どこまで遡ってジャッジを下すのか。
何を基準にジャッジを下すのか。それは、誰にも、出来ないことです。

背景は様々にあります。
それをここで論じるのは、ニュースを読んでいればわかることなのでやめますが、様々なセクトがあり、様々な感情があることを、私たちは否定できません。

しかし、今回のことは、私たちの国際社会に対する無関心さが生みだしたと言っても過言ではないと私は思っています。

これを戦争というのなら、この戦争責任は、私たちひとりひとりにあります。
私たちは、市民(公民)である以上、この世界で起こっていることに、あらゆる意味で、関わり合っているのです。


テロリズムというのは、強力な軍事力を持った「ならず者」に対する報復手段、戦争というのは、勝てそうな「ならず者」に対する報復手段です。

テロはいけないことです。
許されてはなりません。
しかし、テロリズムの根絶は、武力によっては成されるはずはない。
報復の連鎖を断ち切る剣は、武力ではないのです。

武力行使は、新たな武力行使の種を蒔くだけに過ぎません。
そして、刈り取られるのは、人間の命なのです。

全ての武力衝突には、歴史的、民族的、宗教的、経済的、政治的、そして個人的な背景があります。
それをなくすことは不可能かも知れない。

しかし、これを抑止する力は、市民にあるのです。
恒常的な、市民の、平和への揺るがない要求によって、こうした、政治的、経済的な理由が、背景にある武力行使はなくしていくことが、私は可能だと思うのです。
今のような、緊迫した状態でなくても、恒常的に、市民ひとりひとりが、それぞれの場所で、それぞれの立場で、世界平和を心から願い、そして、世界に関心を持ち、世界の、そして自国の政治に関心を持ち、『市民』としての役割を果たしていけば、世界平和を、この、経済的な政治的なうごめきを切り拓き平和を造っていくことが出来ると、私は考えています。

その対話は、家族の中で、友人の中で、学校で、職場で、あらゆる場で、考えをぶつけ合い、議論し、自分の思いを言葉にしていく課程によって平和への思い、そして願いを自分の中に確立し、その小さなコンセンサスを様々な手段で、また、議論しあい、合意を作り、具体的な思考、行動に結びついていくことが、平和への道だと思うのです。

そして、国際社会において、武力行使、殺戮の否定が、コンセンサスとして成り立ち、全ての国が、そのコンセンサスの下、防衛に専心し、また、国際紛争を対話によって忍耐強く立ち向かっていけば、国際平和は夢物語でも、絵空事でもないのです。

しかし、では、現存する兵器をどう処理していくのか。現在抱えている様々な対立をどう解決に導くのか。問題は山と積まれて突きつけられるでしょう。
しかし、武力行使を放棄するというコンセンサスの下、また、相手の尊厳を尊重するという人類の基本的コンセンサスの下、世界中の市民が、平和を希求していくことで、これから長い歴史の中で、地球という星の住人であるというコンセンサスを保ち、自身の空が平和なときも、世界の平和を求める心を忘れなければ、必ず平和は実現します。

今、私たちが感じている平和は、無関心が作り出す霧です。
濃くなれば濃くなるほど、目が見えなくなる。

私たちの世界は、決して、平和ではないのです。
だから、その無関心さを見つめ直し、市民としての義務を果たすことからはじめなければなりません。


さて、「でもテロにやられたらどーすんだよ」と言われると思いますので、続けます。

テロを防止することが必要です。

これには、2つのことを同時に行う必要があります。

ひとつには、テロ行為を未然に防ぐこと。
あらゆる防衛手段を用い、テロに、殺戮という罪をおこさせないことです。
武器、資金、人的資源の流通のチェック、対テロに限っては諜報活動も必要でしょう。

全ての、国というカテゴリーが、それぞれ自立し、自分の力でテロ行為を防止する努力をするとともに、国際社会で連携をとって、立ち向かわなければなりません。
それには、日本は防衛のための軍事力、警察力の在り方を見直していく必要があります。

もうひとつには、テロ行為が起こる理由の解消です。

殺されたくなければ、殺させなければよい。
殺させない努力をしなくてはいけない。
それは、武力行使で、相手を殺してしまうことは、決してないのです。


次に、「じゃ、6000人も殺されて黙ってろと言うのか」と言われると思います。

これは、大規模な犯罪です。
戦争行為と呼んでもいいのですが、戦争も、犯罪です。大義名分が国家の旗の下にあるだけです。

犯罪は、その事実関係を調べ、犯人を特定し、拿捕し、裁かなければなりません。
公正な証拠を、積み上げ、罪を証明し、犯人を確定し、罰を決定しなければなりません。

今回も同じ事です。

引き渡さないんだから仕方がないじゃん、と言うかもしれません。
しかし、国際社会がその証拠を検討し、犯人を確定し、対話によって交渉した結果ではありません。

罪を犯した、そのことは許されることではありません。
しかし、その理由も、私たちは、しっかりと見つめなければ、すぐにまた同じ事が起こります。
罪を犯したその背景を、私たちは、私たち自身の問題として、受け止めていく必要があるのです。



武力行使に関する議論で、「肯定派」の言葉に、よく、「世界の今の危機的状況を理解していない」という意見が出ますが、私にしてみれば、武力行使そのものがこの世界における危機的状況を理解していないのだと思います。

武力行使を行うべきか、否か。
人命が失われ、国土が傷つく、そういった今目の前の悲しい結果も重要ですが、いつ、どこで、国際社会が武力行使の誘惑に止まり、武力行使を放棄することによってスタートする、平和のスタート地点に立つのか、立たないのかということが最も重要なのです。
そして、この様な危機的状況下であるからこそ、人類の、資質が「歴史」に試され、私たちは、市民として、その結果を出さなければならないのです。

武力行使が、問題の解決にならないことは誰の目にも明らかです。
だけど、やらなければしょうがないじゃないかというのは、あまりに幼稚です。

戦争は、さっと始まり終わるものではありません。
戦争になれば、必ず死者が出、また、非戦闘員が犠牲になるのです。
クールで、きれいな戦争はあり得ません。
それは、テレビゲームの中にしかないのです。

今、この爆撃によって流される血は、私たちの掌にその罪の刻印を押しているのです。
私たちは、被害に遭われている方も含め、全ての市民が、加害者であることを
忘れてはなりません。

私は、間接的であっても、直接的であっても、罪を犯したくない。
その罪を、これ以上背負いたくない。

だから、平和を求め、行動するのです。

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【戦争をやめてほしい市民の署名活動】のサイトのMATSUDAさんより意見表明を頂きました。

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